私が生きている今ここの世界は、その中の一片の塵にいたるまで、全て“いのち”からの贈りものである。人は、この極めて単純な事実を認識するとき、今ここの世界は、そのまま安らぎの世界となり、また、すべての悩みから解放されて幸せになることが出来る。
ここに於いては、宗教の違いは何の関係もない。すべての人は、その“いのち”によって、単に今ここに生きているという事実のみによって、無上の安らぎと無上の幸せを得ることが出来るのである。
しかし、ここで大きな問題がある。それは、私のような心の汚れた人間には、容易にその清い世界に達することが出来ない、と云うことである。心の汚れ、それは妄とも云う。
世には「妄尽きて源に還る」という有名な言葉があるが、私は、まことに恥ずかしいことながら、88歳にして漸く心の汚れを払い去って、源に還ることが出来た。いわゆる悟りである。すなわち、88歳にして、やっと汚れのない純粋な“いのち”に出会うことが出来たのである。
それは、早朝の座禅をしていた時のことであった。突然、私は、「汚れた世界の底が抜け、この私自身が、今ここの世界を支えている“いのち”となった!」との激しい衝撃を受け、驚天動地の中での深い感動で、しばし茫然自失したのである。また、長年にわたる多くの難問(公案)も、この“いのち”によって、一挙に解け去ったのである。
これ以来、心の汚れを払った私は、“いのち”の世界、すなわち安らぎの世界に安住し、この上のない幸せの中に居る。そして、日々、一切の生きとし生けるものの幸せを祈り続けている。そこには、すべての人々の他、大地を覆う草木も大空を舞う鳥たちも、全て我々と同じ“いのち”であることは、改めて言うまでもない。
このように、この世界は、“いのち”と慈愛に満ちあふれ、光り輝く世界なのである。
要約すると、今ここに生きているという事実そのもの、すなわち“いのち”の世界は、誰でも、心の汚れを払うことさえ出来れば、そこは安らぎの世界であり、また、幸せの満ちあふれた世界でもある、と云うことである。