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いのち(その8)悟りについて

 一般の人々は誰でも同じだと思うが、悟りを得るまでの私にとって、一切万有は、私のにあった。例えば、目の前のテーブルも、その上の書籍も、窓の外の山川草木も、・・すべては、私のにあった。
 しかし、悟りを得てみると、その世界は逆転する。すなわち、一切万有は、逆に、私のにあることに気付く。目の前のテーブルも、その上の書籍も、窓の外の山川草木も、・・すべては、私のにあることに気付くのである。
 換言すれば、私の“いのち”が、これら一切のものを、まるごと包み込んでいることに気付くのである。すなわち、前記のように、この世界は、まるごと私であり、私は、そのまま、この世界なのである。そして、このような事実は、また、道元禅師や達磨大師などの諸祖師においても、いろいろな形で伺い知ることが出来る。

 さて、菩提樹の下で悟りを開いたブッダは、山を下り、弟子たちの居る鹿野(ろくや)(おん)に向かう途中、ウパカ(Upaka)という人に、次のように言っておられる。
 「わたしは一切を克服しており・・・・・・・・・一切を知っている・・・・・・・・。いかなるものにおいても汚されることはない。・・」と。(1)

 この言葉の傍点部分から推察するに、ブッダは、その世界が、まるごとブッダご自身の“いのち”の中にあることを宣言されたのではないか、と私には思われるのである。

 では、そもそも、ブッダは、あの菩提樹の下で、一体、何を悟られたのであろうか? それは、古来、仏教上の最大の謎とされている。それは、ブッダが、誰もが最も知りたいと思っている此のことに就いて、何一つ明確な説明をなされていないからである。しかも、その理由とは、一般の人々に説明しても理解が得られず、ただ、徒労に終わるだけであるから、と云うのである。

 しかし、私は、前述のように、ブッダの悟りは、“いのち”であると信じる。しかし、その“いのち”とは何か? これを説明することは、前記(その3)で述べたように、不可能である。まさに、ブッダの言われる通りである。我々にとって最も身近であるはずの“いのち”が、逆に、最も説明困難ないし説明不可能なのである。ブッダならずとも、途方に暮れざるをえないのである。

 換言すれば、“いのち”の世界は、言語に絶した世界であり、そこに於いては、言葉(文)とか論理は通用しない、と云うことである。我々は、まさに、「源に還る」のでなければならない。我々は、次に、言葉(文)や論理を支えている「意味」の世界を解明しなければならない。その理由は、その意味の世界のにこそ、言語に絶した“いのち”の世界が、存在するからである

参考文献

(1)「聖求経」(南伝大蔵経)巻9・p.306