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いのち(その7)如来について

 前掲(その2)の「法身」の項を再掲示したい。

 法身:「法身の理は、なお太虚の如し。縁にしたがい感に赴く。周偏せざるなし。」(涅槃経)

 生命そのものである法身からの出口・・、すなわち、法身が縁にしたがって感に赴くとき、私が、その法身からの出口に(たたず)むとき、そのとき、出口に佇んでいる私は、如来となる。
 そのとき、私は、法身から来た者、すなわち、如(真如)から来た者であって、文字どうり、私は如来となる。また、その私は、目覚めた者とも、あるいは悟った者とも言われる。

 更に、そのときの私の心は、一心・・と言われる。すなわち、有名な「一心一切法」などの言葉にある一心である。それは、一切万有を、まるごと包み込む私の不動の心・・・・である。

 実は、この法身(生命そのもの)からの出口に佇むことは、仏教一般では、「心を止める」とか、「心を回す」とか、あるいは、「源に還る」とか、いろいろと表現されている。

 では、その法身からの出口に佇むとは、具体的には何を指示しているのであろうか? それは、次の通りであろう。

  1. 三昧(ざんまい)・・・座禅における無相な心の統一の世界であり、太虚のごとき法身を目指すものである。
  2. 涅槃(ねはん)・・・そこは、限りない安らぎと限りない幸せの世界であり、仏教の目指す世界である。
  3. 念仏(ねんぶつ)・・・如来である私が、その如来に帰一することを念ずることである。従って、如来が、その如来を念ずる此の念仏は、仏教における究極の行である、と云うことが出来る。私にとって、そこは、目くるめく極致の世界である!
  4. 公案(こうあん)・・・迷える人々を、太虚のような法身からの出口に導くための一つの手段である。そこにおいてこそ、目覚めが、実現されるのである。

 従って、仏教とは、これを一口で言えば、生命そのもの即ち“いのち”の宗教である、と云うことが出来る。例えば、正しく生きるための八正道など多くの戒律も、すべて、ここから導かれる。すなわち、仏教の根底は、今ここに生きているという事実・・である、と云うことが出来る。これが、周知のように、一切のドグマを排除されたブッダの、他に例を見ない普遍的な宗教である。

 私は、いま、全世界の人々に向かって叫びたい。 「一切の生きとし生けるものは幸せであれ」と。
 これこそ、ブッダそのお方の、お叫びのお声でもあったのである。