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いのち(その12)イエスについて

 私は、ときどき新約聖書を開いてみる。しかし、私にとっては、この聖書は、いつも悲しい世界である。そこは、誰にも理解されず、裏切られ、もがき、苦悩するイエスというお方の悲劇の世界である。

 しかし、“いのち”の中に居る私には、イエスの言われる多くの言葉が、まさに、手に取るようにびりびり・・・・と迫ってくる。しかし、イエスが話しかける周りの人々は、誤解ばかりであって、誰一人、それを本当に理解出来ないのである。

 いや、理解出来ないどころか、かえって反感をもって、そのイエスそのお方を、十字架で殺してしまうのである。
 何たる悲劇か! まさに、言語に絶する悲劇である。

 では、イエスの周りの人々は、何故、イエスの言われることが理解出来ないのであろうか? それは、イエスの言っておられる事そのものが、極めて奥深く、極めて難解だからである。端的に言えば、それは、説明不可能な世界だからである。

 これに就いては、前記(その8)において、ブッダご自身が、その悟りについての説明を避けておられるのと同じことである。そこは、“いのち”の世界である。それは、前記(その10)で述べたように、今ここに在るもの、しかも、至る所に在るもの、しかも、決して言葉では表現出来ないもの、しかも、思い量ることさえ出来ないもの、しかも、一瞬たりとも離れることが出来ないもの、しかも、最も身近に在りながら最も難解なもの、これが、“いのち”である。

 しかし、“いのち”の中に居る私にとってみれば、イエスの目くるめくような多くの言葉は、明々白々であって、まさに、“いのち”の世界である。これを鈴木大拙は、イエスを評して「天成の禅者」、すなわち天成の“いのち”の人と言っていることは、前記(その10)で述べた通りである。

 いずれにせよ、私にとっては、聖書は、悲しい悲しい“いのち”の世界なのである。