この論文(いのち)の冒頭の一節を再掲示したい。
「私が生きている今ここの世界は、その中の一片の塵にいたるまで、全て“いのち”からの贈りものである。」
この文に於いて、“いのち”からの贈りものとされている全てのもの、すなわち一切万有は、周知のように、般若心経ではこれを「空」としており、また、法華経では「一切法空」と表現している。
勿論、この空は、仏教の根幹をなす概念であるが、一般には、これは縁起の理法で説明されている。すなわち、常に移り変わり行くこの世の全てのものは、必ず因縁によって生起し、あるいは滅び去るものであるから、その実体はなく、従って、これを空としたのであると。これは、確かにその通りであり、また、空っぽと云う表現もすばらしい。
しかし、これは、あくまで空についての説明であって、説明以上のものではない。従って、これを仏の世界、すなわち説明不能な神秘な世界にもってゆくには、必ず、覚醒ないし悟りを得なければならない。
勿論、この覚醒ないし悟りを得た世界は、言語に絶した“いのち”の世界であり、そこでは、般若心経などの諸経典も今まで見たこともない全く新しい姿で、この私に迫ってくる。また、そこでの一切万有は、「山川草木国土悉皆成仏」と云う。また、そこでの空は、鈴木大拙のいう「真空妙用」の世界であり、そこは、永遠に人々を救済してやまない大悲の世界であり、感動あふれる空の世界なのである。