周知のように、仏教は、他の宗教にはない高度な普遍性を持っている宗教である。そのため、仏教についての知識のない人々にも、何とか仏の世界を理解していただきたい。そのような思いから、私は、前掲の(その1)を出来るだけ仏教用語を使わずに書いてみた。
では、その前掲(その1)の背後にある仏教とは何か? それは、「生命そのもの」を指示しているとみられる「法身」と「仏身」という仏教の根幹をなす二つの概念である。それらは、次の通りである。
法身:「法身の理は、なお太虚の如し。縁にしたがい感に赴く。周偏せざるなし。」(涅槃経)
仏身:「大地が万物の所依となるように、一切万有の拠り所となる根本の仏身を本地法身といい、大日法身が即ちそれであるとする。」(仏教学辞典)(1)
まず、法身については、これが指示しているものが生命そのものであることは、容易に分かるであろう。生命そのものが、太虚の如くであるのは、まさに、その通りであり、その生命そのものが、感に赴いて一切万有に周偏し、これを現出させている、と云うのは、まさにその通りである。
次に、仏身の項も、前項と同じ内容であることが分かる。すなわち、一切万有の土台が、法身すなわち生命そのものであることを示している。換言すれば、一切万有は、生命そのものによって現出されたものである、と云うことであり、これは、前項と同じことである。
また、仏教学の大家・玉城康四郎氏は、その著書「仏教の根底にあるもの」の中で、法(ダンマ)とは純粋生命である、と指摘されている。(2)
このように、仏教の根幹である法身ないし法と、仏身ないし仏とは、一般用語で云えば生命そのもののことである。従って、私は、法や仏の代わりに生命そのもの、すなわち“いのち”を用いて、仏教の世界を描いてみた。それが前掲の(その1)なのである。
さて、ここで、私の悟りについて少し詳しく述べておきたい。
前記の「仏身」の項の中に「大日法身」という記述がある。大日法身すなわち大日如来ないし毘盧遮那仏は、いわゆる「大仏さま」として遥か彼方から拝む仏の中の仏である。しかも、ここでは、その大日法身が、生命そのものであるという。
さて、88歳になった年の2019年10月22日の早朝、いつものように座禅をしていた時のことであった。突然、激しい衝撃が、はしった。その大日法身、すなわち今ここの世界を支えている生命そのものが、この私自身である!という衝撃であった。この私が、まさか、あの大日如来とは! まさに、驚天動地であった。また、今迄あった汚れた世界は、その底が抜け、崩壊し去った、という衝撃であった。私は、その深い感動の中で、しばし茫然自失したのであった。
更に、一週間後、私は、長年の難問であった公案を遥かに超えた全く別の世界に居ることに気付き、仰天したのである。そこは、勿論、“いのち”の世界である!
こうして、これによって人が変わった私には、生きている今ここが、限りない安らぎの世界となり、また、生きている今ここが、限りない幸せの世界となったのである。そして、この汚れのない世界は、また、仏の世界でもある。すなわち、道元禅師は言っておられる。
「いはゆる世界は、十方みな仏世界なり。非仏世界いまだあらざるなり」(3)と。
そして、ここには、あらゆる宗教と宗派を超え、また、あらゆる民族と国家を超えた人々の、限りない安らぎと限りない幸せがあるように、私には思われてならないのである。そして、このことは、前述のように、他の宗教にはない仏教の持っている高度な普遍性であって、広く世界に向かって発信すべき世界観ではないか、とも思えるのである。
参考文献
(1)仏教学辞典・法蔵館・1995年・p.391
(2)玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」・講談社学術文庫・1986年・p.23
(3)道元「正法眼蔵」(一)・岩波文庫・1990年・p.206