周知のように、旧約聖書の冒頭の「天地創造」は、次の通りである。
初めに神天地を創造せり。
地は混沌として、暗、淵の面にあり、しかして、神の霊、水の面にただよう。
さて、この天地創造の一節は、驚かれるかも知れないが、この論文(いのち)の冒頭の一節と、全く同じ内容なのである。その理由は次の通りである。
すなわち、聖書学の大家・赤司道雄氏は、その著書「聖書」の中で、古代イスラエル人の生命観を詳細に検討し、ここで使われている「創造」の概念は、形を持った万象を造るという意味ではなく、その形造られた万象に対して生命を与える働き、すなわち、万象を「生かす働き」と考えねばならない、とされているからである。(1)
すなわち、神の創造の働き、ないし神の霊の働きとは、あらゆる存在に生命を与える働きである、とされているからである(2)。
換言すれば、“いのち”を神ないし神の霊とすれば、この天地創造の一節は、この論文の冒頭の一節、すなわち、一切万有が“いのち”からの贈りものであるとする一節と、全く同一になるのである。
すなわち、古代イスラエルの人々は、既に、“いのち”の人だった、と云うことである。
さて、この古代から“いのち”の国であるイスラエルの地に、あの天成の“いのち”のお方であるイエスが、生まれたのである。しかし、そのイエスは、周知のように、ユダヤ教団の狭い民族的な教議に異義を唱え、普遍的な教義を目指したため、十字架で処刑されることになる。
しかし、イエスの弟子達ないし後継者達にとって、その当時、その地で、圧倒的なユダヤ教団に対抗して、全く新しい教団を立ち上げるのは、まさに、至難の業であった。そのため、彼らが行ったのが、多くの「奇跡」を用いたイエスご自身の神格化であった。
しかし、前記の赤司氏によれば、イエスの復活、処女降誕また水上歩行などを含め、すべての奇跡は、言い伝え、譬え話、あるいは比喩などが変化したものに過ぎないことを、詳細な事例をあげて指摘されているのである。(3)
これに関して、私には、多くの奇跡に彩れて神格化されたイエスの姿は、かえって、イエスの普遍的な本意に反するのではないか、とも思われるのである。
また、それは、人々を一人残さず全て、無条件、無差別に救済するというイエスの極めて純粋で普遍的な精神には、かえって、そぐわないのではないか、とも私には思われるのである。
いずれにしても、イエスは、限りなく尊い普遍的な“いのち”のお方なのである。
参考文献
(1)赤司道雄「聖書」・中央公論社・昭和41年・p.27
(2)同p.136~137
(3)同p.108~123