表題の“いのち”ないし生命そのものとは、一体何であろうか? しかし、この生命そのものは、色もなく形もなく、従って、これを言葉で言い表すことは、全く不可能である。それは、前述の涅槃経が云うように「太虚の如し」だからである。
さて、私は、すなわち生命そのものである私は、勿論、この身心の私ではない。この身心は、生命そのものが造った被造物であって、生命そのものである私ではなく、全く別のものだからである。
従って、この生命そのものである私は、古来、真実の私とか、本来の私とか、あるいはアートマン等々と云われ、神聖なものとして崇められてきたのである。
では、この生命そのものである私、すなわち本来の私は、何処かから来て何処かに去って行くものであろうか? それは全く分からない。しかし、少なくとも、この私が生まれて来たことと死に去ることとは全く関係がない、と云うことだけは確かである。このことは、南北朝時代の高僧・夢窓国師が、その「二十三問答」の中で、「生るるとても来るものなく、死するとても去るものなし」と言っておられるが、まさに、その通りである。
このように、本来の私である“いのち”は、理解不能であって神秘的であり、従って、本来の私は、古来、「仏」として拝まれてきたのである。大乗仏教において、人々は、本来的には、一人残らず全て仏であるとされてきたのは、このためである。
従って、もし、仏である私が、他ならぬその仏を念じたとすれば、その念仏においては、悟りが即成立しなければならない。すなわち、救いである念仏が、即、悟りである。これが、易行とされる念仏宗であって、まさに、親鸞聖人の言われる通りである。
このようなことから、我々一人ひとりは、その生死を超え、そして、この天地をも超えた限りなく尊い存在である、と云うことに深く留意せねばならない。周知のように、これを仏教では「天上天下唯我独尊」と云うのであり、これは、今ここに生きていると云う単なる事実の限りなき偉大さを、如実に示しているのである。