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いのち(その5)生と死について

 前掲(その2)の「法身」の項を再掲示したい。

 法身:「法身の理は、なお太虚の如し。縁にしたがい感に赴く。周偏せざるなし。」(涅槃経)

 これによると、生命そのものである法身は、たまたま・・・・縁のあるときは感に赴く。すなわち、感覚器官ないし肉体を造ることによって「生」の世界を形成することが出来る。
 しかし、もし、その縁が無いとき、あるいは、有った縁が尽きたときは、どうなるのか?
 前者の場合は、周知の盤珪禅師のいう「不生」に相当し、その不生は、法身そのものを指示している。また、後者の場合も前者と同じく不生であるが、我々は、これを特に「死」と呼んでいる。

 このように見てくると、例えば、たき木が灰になるように、生が死になるのではない。そうではなくて正しくは、道元禅師も言っておられるように、生は一時の法位であり、また、死も一時の法位であって、例えば、春の季節と夏の季節の如きものである。(1) すなわち、生と死とは、全く同じ重さをもって並ぶのである。

 換言すれば、私の生命そのもの、すなわち、本来の私は、私の肉体の生と死とは無関係に全く不変である、と云うことである。従って、例えば、「死んでも死なない」とか「永遠の生命」という言葉を聞くことがあるが、仏教の世界では、これらは全く正しいのである。更に言えば、これらの言葉は、人々にとっては勿論、一切の生きとし生けるものにとっても、それらは、真実なのである。

参考文献

(1)道元「正法眼蔵」(一)・岩波文庫・1990年・p.56