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いのち(その10)道と禅について

 この章は、鈴木大拙著「禅の第一義」を基にして書いている。(1)ご承知おき下さい。
 さて、古代中国の道教においては、次の言葉がある(意訳)。

  1. 道は、有心では得ることが出来ない。
    無心でも得ることは出来ない。
    言語でも得ることは出来ない。
    沈黙でも得ることは出来ない。
    少しでも推し量ろうとすると、千里・万里の彼方に去ってしまう。(2)
  2. 道は、いたる所にあり、だから瞬時も離れてはならない。(3)

 この道教における「道」とは、一体何であろうか? これについて、大拙は何も触れていないが、私は、道とは“いのち”のことである、と確信する。と云うのは、ここで示されている道は、“いのち”と全く同じだからである。

 では、次に、同じく大拙に従って、禅について考えてみたい。
 まず、禅とは、哲学であろうか? 彼は言う。禅とは、論理的に思考する哲学ではない。逆に、禅とは、論理的思考を絶した体験そのものである、と。また、この世には、いろいろな分別的な言葉が溢れているが、実際に目に見える実物は、ただ、一つであり、また、すべてのものは、ただ、一つである、と。(4)
 また、彼は言う。禅は、全体作用である、と。また、これを推し量ることは出来ず、また、計り較べることもできず、また、知慮分別を超絶している、と。(5)
 このような彼の言説をみれば、禅とは道と同じく“いのち”であることが分かる。
 更に、公案の項を見ると、師が、その弟子に意味不明なメチャクチャな題目を提示し、それに応えることを強く要求する。この荒々しい行為の目的は、ただ一つ。その弟子をして、その意味ないし言語の世界から脱却させること、すなわち、“いのち”の世界に導くものであることが分かる。

 さて、このような意味の絶した世界、それは、普通では想像することの出来ない世界である。これが、“いのち”、すなわち法身の世界である。前述のように、このことを涅槃経では「法身の理は、なお太虚の如し」と云っている。
 このように、“いのち”である意味の絶した世界は、分節の絶した世界であるから、その結果、そこは、完全な無碍(むげ)の世界であり、完全な自由な世界であり、限りない寛容と限りない安らぎの世界(涅槃)であり、また、日の光の如く総てのものを等しく照らし、慈しみ、愛し、恵む大悲の世界である。まさに、神や仏の国である。

 この、意味の絶し、想像を絶した“いのち”の世界こそ、すべての宗教の原点である。大拙は言う。イエス・キリストは天成の禅者である、と。その「汝の敵を愛せよ」という言葉は、その意識から出たものではない。意味の絶し想像を絶した禅(“いのち”)から発せられたものである、と。(6)私も、まさに、その通りであると信じる。

参考文献

(1)鈴木大拙「禅の第一義」・平凡社・2011年
(2)同p.9
(3)同p.11
(4)同p.60~61
(5)同p.55~56
(6)同p.126