私がイスラム教の経典・コーランを読んで感じることは、まず、預言者のムハンマドは私と同じ覚者ないし悟りを得た人である、と云うことである。
次に感じることは、そこでの神とは、この論文の“いのち”のことではないか?と云う疑問である。(1)と云うのは、この両者は、あまりにも似ているからである。少なくとも、この両者が全く無関係なものであるとは、私には、信じられないことである。それは、次の通りである。
この神は、“いのち”と同じように、言葉による表現が全く不可能なお方であり、また、思い量ることさえ出来ない尊いお方である。
更に、この神は、“いのち”と同じように、今ここに在り、しかも、至る所に在り、しかも、一瞬たりとも離れられないお方である(コーランでは、神は、そのア-ヤ(徴)の絶えざる発信者とされている)。(2)
更に、此の神は、“いのち”と同じように、一切万有の土台であり、一切万有を現出させているお方である(コーランでは、これを「天地創造」と言う)。
更に、この神は、“いのち”と同じように、永遠の生命である。
更に、この神は、“いのち”と同じように、人々を救済してやまない慈愛のお方である。しかし、当時のアラビヤ半島での厳しい部族社会の情勢を反映している為と思われるが、この救済には、厳しい条件が付けられ、その普遍性が制限されている。
更に、この神は、“いのち”と同じように、完全な無碍のお方であり、また、完全な自由のお方である。
更に、この世界は、まるごと“いのち”であり、また、“いのち”は、そのまま此の世界である。それと同じように、この世界は、まるごと神の支配であり、また、神の支配は、そのまま此の世界である、と言えるからである。
なお、コーランでは、神は、生きておられるお方である。まさに、神は、“いのち”のお方である。まことに微笑ましく、親愛の情を禁じ得ないのである。
勿論、このイスラム教のコーランは、ユダヤ教以来の極めて長い一神教の歴史を背景にしている。従って、その個々の表現には、当然のことながら、いろいろと相違があるけれども、少なくとも、その根幹に於いては、この論文(いのち)と同じである、と私は信じている。
このように、“いのち”は、すべての宗教の原点である。しかし、それは、宗教の原点であるだけであって、決して、宗教そのものではない。それは、何度も強調してきたように、ただ単に、生きていると云う実事についての世界である。
従って、私は、決して、何らかの「教義」を説いている宗教者ではなく、単に生きていると云う限りなく尊い実事についての一介の報告者に過ぎないのである。
─追記─
ここで、古代インドのヴェーダーンタ哲学について、一言だけ触れておきたい。
その哲学によると、この宇宙の最高原理とされるブラフマン(梵)とは、分節的な意味を超えた世界であるとされている。すなわち、一切の意味的な限定が消去された根源的な「有」であるとされている。
しかし、そのような世界は、勿論、前記(その9)「世界分節について」において述べたように”いのち”の世界である。従って、ここに於いては、同じ”いのち”である私(アートマン)と、此のブラフマン(梵)との間の一体化、すなわち有名な「梵我一如」の哲理が、自ずから成立することになる。これが、インドのヒンドゥー教の基盤なのである。
<注>
(1)神・Allāh
(2)ア-ヤ(徴)・āyah,複数āyāt
─ 完 ─